あけましておめでとうございますというかブログの存在を忘れていたっていう

 はい、ということであけましておめでとうございます。になりました。ええ、ブログの存在を忘れてましたね。まあそういうこともあるというかパスワードとか忘れそうで困ってるんですが、まあいいやと。

 えー色々書くことはあるんですが、まず、COMITIA115。サークル参加します。とりあえず一冊短編小説が出ますが、二冊目がでるかどうか危ういという感じです。まあぼちぼち書ければなあと。

 といいますか、3月末までに、公募用に長編二本、中編一本を書かないといけないので困っている次第でございます。大変だなあ(他人事)。

 あとはなんですかね?えー、少し触発されまして、ドリームクラブというゲームのオフ会である「ドリクラナイトin名古屋」ってのをやろうかと目論んでおります。が、まだ目論見段階であり、人も集まるのか?そして会場はどうなるのか?そしてプレイするドリクラ自体をだれが持ってくるの?といった諸問題をかなり抱えつつの話なので、開催できるかはわかりませんが…まあなんとか開催に漕ぎ着けたい気もします。

 もうこのくらいかな?

 とりあえずの近況はこんなもんで。

 はい。

WUG劇場版2の感想「続けること、続かせていくこと、そのために今を精一杯生きる事」

 Wake up,girls!劇場版後篇Beyond the bottomを観ました。僕の人生の中で、初めてスクリーンが涙で滲んだ作品だったので、ちょっとした感想を書こうかと。

 Beyond the bottom(以下BtB)は劇場版WUG前編の「青春の影」を受けてのお話であるので、単独で評価するというのもおかしいのかもしれないのですが、僕は「BtB」は、単独の映画として評価しても差し支えないだろうと思います。ですので、なるべく「BtB」に絞った感想になります。

 当然のごとくネタバレがありますので読みたくない方はそのままそっとブラウザを閉じましょう。あと、WUGの劇場版1やテレビシリーズの大体の話とか知らないとわからないこともあるともうのでそういう方に懇切丁寧に説明するって言う書き方はできないので(めんどくさいというか、それはこの作品の残念ポイントの一つではあるのですが…まあWUG初見だと辛い作りではあるのは確かなのです)ある程度WUG知識がある事を前提にして書きます。













 さて「BtB」冒頭は、前編で東京に出たものの、うまく行かず、再出発という形で仙台に戻ってきたところから始まります。各メンバーが暑さのなかだらけているのが印象的です。気を許しているということとリラックスできているということなのでしょう。(男の松田マネージャーがいるのに)

 仙台からの再出発ということで、グリーンリーブズの面々は、次回開催の「アイドルの祭典」に参加するために知名度を上げていき、ブラッシュアップしていく事を考えたようです。「アイドルの祭典」というのは全国各地のご当地アイドルが各地区の予選を突破して、最終的に日本一のアイドルグループを決めるという催しで、I-1陣営が運営しているわけなのですが、今回はオブザーバーであったI-1 clubも一アイドルグループとして予選で勝ち上がってきたアイドルグループたちと順位を競うという形式になっています。

 WUGメンバーとしては、勝ち上がるためにどうにか研鑽を積み、認知度をあげるといった努力が必要であるわけで、そういった中でメンバーたちはドブ板営業を始めます。一からホントやり直しで、でも希望があるそんな描写でした。

 一方、前編に於いて、I-1でのセンター争いに敗れた志保は、センターを萌歌に奪われたものの、白木GMにチャンスを与えられます。それは「博多へ行って、新しいことをしろ」というものでした。

 ロッカールームで志保は、心配するI-1メンバーに大丈夫と答えるのですが、これが本当に「大丈夫」という意味であるのがすごく強いアイドルの言葉だと僕は思いました。

 さてそんなI-1元センター志保には三人のI-3研究生があてがわれます。そしてI-3の彼女らは、I-1初期の名曲「リトル・チャレンジャー」を歌い踊るのですが、それを観て、志保はアイドルであるということ、アイドルになった初期衝動と楽しさを思い出し、一緒になって踊ります。

 ここ、ホント好きなんですよね。今まで、I-1を背負ってきた志保にはI-1のメンツを守ると言った重圧と責任が自然とかかっていたはずで、故に、自分をじっくり見つめる時間がなかったと思うんです。でも、センターを解かれて、憑き物が落ちたような志保は、とても健やかに、のびのびと、したように思います。そういう環境に置かれたからこその「原点回帰」ができたということなのでしょう。なんにせよここで、I-1の志保が可愛くて仕方なくなるところだと思います。

 「トップアイドルだって、一人の人間である」そういったものが出てきたのだと思います。

 さて、そんな中、WUG一行は古い車を買い、夏休みを利用し、全国行脚の旅に出ます。全国でライブ活動をし、ファンに会いに行くアイドルという形をとって。

 そうした活動はアイドル界隈のファンたちにもネットで話題になり、注目度を増していきます。

 この辺り、僕はちょっと泣きそうでした。彼女たちがとても真摯であったから。小さなことからコツコツと、未来を信じて目の前のことをしっかりとやり続ければ何かが変わるはずという信仰心のようなものを感じて。それはすごく素敵だなと。

 WUGはその全国行脚中にニュースでI-1志保がセンター争いに敗れて博多に左遷されたと知るのですが、島田真夢は、志保なら大丈夫と言い切ります。でも心配だったのでしょう。志保に会いに博多のI-1シアターに行きます。

 そこでの会話。すごくいいんです。お互いに戦友感が出ていて。志保の体型変化(トレーニングで絞った)にすぐに気づく島田真夢なんてすごくお互いをみているってことですし。あの何を考えているかわからない島田真夢が、志保のことをライバルとしてみているっていう証拠ですから。

 話は大分飛んで、男鹿なまはげーずとの対バンをするWUGやWUGらしさとは何かを考えるメンバーの話もあるのですが、一番のポイントは「光塚を選ぶか?WUGを選ぶか?」の二択を迫られた久海菜々美の話でしょう。

 久海は、最初から、「WUGは光塚に入るための通過点」と言っていました。でもテレビシリーズ10話に於いて、それは一旦保留にして、当座はWUGに専念すると宣言しました。その通りにWUGに専念するわけなのですが、父親から「光塚はどうするんだ?」と言われ、自身の最初に描いた夢と努力と、WUGという新しい夢とそのための努力といったものをどう両立できるものか?どちらかを選ばなければ中途半端になってしまうどうすれば…と悩みます。

 そんな変化にいち早く気づいたのが林田藍里でした。そして、林田はWUGメンバーの前に久海を連れて行き、久海は「光塚受験のため、WUGをやめる」と言います。悩みに悩んで考えた末の結論を言う久海の心境は計り知れないでしょう。でもWUGメンバーは久海の背中を押すことを選びます。それがWUGの一員としてできることなのだろうと。

 結局のところ、久海は、アイドルの祭典会場にあらわれて「WUG一本でやっていく」と宣言するわけですが、その間の涙をさそうシーンが多く、畳み掛けてくるなあと。

 アイドルの祭典でのロッカールームでは、志保が待っていました。そしてI-1も楽屋に入ってキます。「ちょっとした同窓会だね」と話が弾むわけですが、皆笑顔なんです。これから戦う者同志だけれども笑顔なんです。

 これは、お互いを戦友と認め合った仲でしか出来ないものではないでしょうか?僕はこの描写にぐっときました。

 そして、色々あって主題歌がながれつつエンディングなのですが…。まあ素晴らしいなあと。何が素晴らしいんだと今問われても難しいのですが、僕は直ぐに後篇のキャッチコピーである「真摯であること・正直であること・一生懸命であること」というワードが脳裏に浮かびました。そう、真摯なのです。そして正直であり、一生懸命で在り続けることが、芸能というものに感動を与える演者達の心持ち・生き方なのだろうと思いました。そしてWUG BtBはそれが描けていると思います。

 芸能や娯楽というのは人を熱狂させ心を豊かにさせますが、一過性で儚いものでもあります。人の興味は移ろいやすいですから。でもそんな世界でも、芸能、娯楽といった儚いものを形あるものとして連綿と続く歴史として作り上げるといったことを皆していて、先人のそれが今の自分達に力を与えてくれるというメッセージは、とても尊い。

 白木GMなんかはそういうことを意識してI-1をプロデュースしているのではないでしょうか?そう考えるととても芸能を裏から支える(演者としてではなく記録者・企画者として)というのもひとえに「芸能」に対する情熱と、「先人から受け取ったバトン」を次の世代に渡す。そういった心意気を感じます。

 と、とりとめもないまま感想は終わりますが(だって咀嚼しきれてないし疲れるので…)とにかく、WUG BtBは、「バトンを繋いでいくことの大切さ」を示した作品であるなあと思ったのが僕の一番最初の感想です。これから何度か見ていく内にまたいろんな気持ちが湧いてくるのでしょうが、まあそれは楽しみにとっておくことにして、とりとめもない感想はこの程度にしておきます。

 特にオチのない感想ですみませんが… ね?


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パスピエが僕の中で幽世から現世に存在をのぞかせた日。

 本日、Zepp名古屋にて、パスピエのワンマンライブツアー「娑婆巡り」に参加してきたのだけども、多幸感がすごく余韻に浸っています。

 文章で伝えるのは難しいし、駄弁を以って語れる印象ではないので、なかなか筆が進まないのですが、それでも「すごいものをみた」という思いからブログを書いています。

 本日のライブでは既存の曲をライブアレンジにしたものが数曲有り、どれもジャズ・ファンク手的な色をしており、パスピエの音楽の多様性が更に広がったなあという印象でした。

 パスピエの曲を聴くとわかるのですが、ディスコティークなものから和風なもの、ポップなもの、そして、しっとりしたクラシカルな構造の曲といろいろな音楽のジャンルを横断しているのが特徴だと思います。そしてそれを支える演奏技術もさることながら、「表現力」というものが抜きん出ているなあという印象でした。

 「表現力」とはなにか?と言われるとそれは、彼らのステージングにあります。ただ演奏しているわけではない。ショーを魅せる、空間を作る。そう言ったものが伝わってくるのです。

 今回は二階指定席の最前列でじっくり俯瞰して見たのですが、ボーカルの大胡田なつきさんの演舞は言うまでもなく、演奏者皆の「演舞」といったものが見えてきたのでした。

 音楽以外にも表現というものはあり、ただ音楽を演奏するだけではないライブ。ミュージシャンというよりはパフォーマーといった方が適切なのかもしれません。音楽以外の方法で「なにか」を伝えることができている稀有なバンドだなあと思います。

 そして、ライブの途中、大胡田なつきさんが語っていたのですが、「自分たちは二次元的な存在だったのだけれども、新アルバム『娑婆ラバ』から三次元的なものになってきている」(大意)というのが実に興味深い話でした。

 確かに、パスピエは、デビュー以降顔出しというものはせず、それが妖しさにつながっており、それが少し非人間的な存在として存在していたと思います。そういうプロデュースの在り方だったのか、パスピエ自体がそれを望んでいたのかはわかりませんが。

 そのなかで、アッチ側の妖しい幽世の世界に居た彼らが、コッチ側の世界である現世に徐々に存在を移行しつつ在るというのが伝わってきました。

 その一端が歌詞の変化にあらわれていると大胡田なつきさんは言っていたけれども、歌詞だけでなく、演奏やステージングそのものが「コッチ側」の僕らの世界にコネクトし、受け手を巻き込んで音楽をつくり上げるということができるようになってきたというのが、パスピエの成長なのかなあと思いました。

 なんて、上から目線ご容赦ですが。とにかく面白い方向に転がっているバンドです。

 パスピエを知らない皆さん、ぜひお聴きくださいね。

いつからフラグとかカップリングとか気にして物語を見るようになったんだろう。

 最近、アニメの実況タグを見ながらアニメを見るのが趣味というか、他人がどうそのアニメを見ているのか?っていうのに興味があって、いろいろ見ているんですが、鉄血のオルフェンズを見て思ったことが、ブログタイトルのそれで…。

 自分の中では、フラグとかカップリングとか全然気にしないで受け取ってるんだけど、なんか大勢の人たちは、初見時から直ぐにフラグという物語の演出構造や、新キャラが出るたびにカップリング妄想とかする気がします。

 こういった楽しみ方は、否定もしませんし、面白いと思うんですが、問題は、いつから初見時からそういう物語の構造や、二次創作に即繋げる思考回路が形成されたのかというところです。

 僕は、フラグとかカップリング妄想とかそういうのは、あくまで副次的・二次的楽しみ方であって、まず一次的楽しみ方である「何も考えず作品に身を委ねて素直に見る(受け取る)」っていうのをまずするものじゃなのかなあと思っていたし、そういうもんだと思っていたんですが、少なくとも、ツイッターの実況民を見る限りはそうではなく、そういう一次的楽しみ方をすっ飛ばして副次的・二次的楽しみ方であるフラグ・カップリング妄想といったものに一足飛びに行ってしまうという印象を受けます。

 先述したように、こういう楽しみ方は否定しませんしむしろ楽しいし、所謂考察の楽しみだと思うのですが、どうも初見時からフラグとかが気になるってのはどうもフィーリング的に合わないなあと…。

 多分、世の中の人は、物語作品を受ける体験が豊富すぎて、物語の定型(テンプレート)をたくさん収集してしまったがために、嫌でもそういうテンプレートに当てはめて物語の展開を予想したくなるという回路ができていると思うのですが、これが本来の一次的楽しみ方を阻害してしまっている気がします。

 そして、作劇者もそういう受け手の思考回路を逆手に取って、フラグ・伏線といった予兆からおそらく大体はこういう展開にするだろうという期待に沿った話作りをしたり、逆にそれを裏切るという演出をしたりするのだろうけれども、それってなんか作劇の自由を奪っている気がしないでもないんですよね。

 そりゃ、結局物語はある程度のテンプレートが在るとは思うんですが、あまりフラグとか伏線とかをメインに物語作品の楽しみ方の優先度上位に置くと、自由な今までのテンプレートから外れた作品がでてこなくなるんじゃあないかとか危惧したりします。というか演出技法としてそういうものがないとそもそも作品として受けてもらえなかったりするのかもなあと…。

 フラグとか伏線とかわかりやすく定型化して楽しませるエンタメは確かに昔からあって、ハリウッド映画の作劇なんてまさにずっとそういう物があると思うのですが、そういったものだけが娯楽作品として受け入れられる状況になると、どうも新しいエンタメは出てこない気がして…。

 特にオチはないんですが、なんかどうもフラグとか伏線とかカップリング妄想とか、そういうのが受け手の全面(それも初見時に)に出過ぎてなんか素直にありのままの作品を受けるという一次的楽しみを結果的にスポイルしているのはもったいないんじゃあないかなあと言ったお話でした。

 おしまい。

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物語と作品はイコールではないだろう。

 今現在、僕は、小説という表現媒体を武器にして、物語作品を生み出してどうにか勝負をしたいと思っている。それ故に小説でしか出来ない表現とは何かと考えているのだけど、どうもなかなか見つからない。しかしながら一つたたき台にできると思ったのが、ノベライズ・コミカライズ・アニメライズ・ドラマライズ(正しい言葉なのかはわからないけれども伝わるだろう)といったマルチメディア展開といったものから考えることなのだろうと思う。

 時代性なのかわからないけれども、世の中でウケている物語作品というのはビジュアルイメージを全面に打ち出している印象がある。例えば小説でもライトノベルは表紙絵・挿絵の持つ力は強いと思う。表紙絵・挿絵でキャラクターの姿形が一発で画像情報として理解できるものというのは、とても強く印象に残るものだと思う。

 小説という文章だけの媒体であると、様々な容姿を表す語彙であったり表現があるのだけれども、例えば「青」ということばでイメージするのは皆一様に同じ色の「青」ではなく、人によっては信号機の「青」のように緑がかった「青」であるかもしれないし、突き抜けた秋空のような「青」かもしれないし、透き通った深海の「青」であるかもしれないのだ。

 そういった受け手の感受性とこれまで培ってきた人生経験の差異と言葉の結びつけ(シニフィアンとシニフィエ問題)といったものが自由であるのが小説という媒体の映像的表現の面白みであると思うし、僕はそういう受け手が自由に自分の好きな絵的イメージを想起できるものが好みであるのだけど、一般的にはどうもそうではなく、不特定多数の人と、キャラクターや情景の共有をしたいという欲求が強いように思えます。

 というのも、二次創作の世界に触れて思ったのですが、これは同じ作品を好きな人が共通項を見出して、その同じ共通項と作品情報の固定化という前提条件があってこそ成立するものであると思うのですが、それを強烈に並列化/同一イメージ化するのに最適なのはやはり「ビジュアル」なのですよね。

 なので、小説でもライトノベルやシャーロック・ホームズなどの銅版画付きの小説というのはキャラクターの風貌がまずビジュアルとして受け手の大多数に共通項として心に焼き付くので、そこから同じイメージ想起点を発端とした妄想のやり取りというのができるっていうのが二次創作の楽しみだと僕は理解しているのですが、それは果たして絶対なのかと問われれば、僕はそうではないと言いたくなってしまう。

 そりゃメイン・キービジュアルがあったほうが一発で同じイメージを多人数で共有できるので強力なファン同士の共通項・前提知識として役立つと思うのですが、そればっかりだと、どうもおもしろみが無いと僕は思ってしまう。

 ここで、思うのは、物語はそれぞれ作品化するにあたって、適した表現媒体を持っていて、それから外れると「コレジャナイ感」がでるのでは?っていうことなのですが、特に、今の時代の受け手の好みというのは、「ビジュアル優先」「キャラクター優先」「キャラ萌えのための関係性(百合・BLとか)」だと思うのですが、それは安易にキャラクターというものを記号化してテンプレートとして消費しているように見えてならないのですが、僕はどうもそういうのが苦手らしい。

 それはそれで楽しみ方の一つでは在ると思うのですが、それだけじゃないでしょう物語が作品となる場合の可能性というのは!というのが僕の考えるところで、なおかつ僕の表現手法・演出手法に於いて弱いところでも有ります。

 小説のアニメ化・映像作品化においては、おそらくキャラ立ち・キャラ萌え・関係性萌えといったものにフォーカスを当てると、映像表現として映像映えと物語にコミットしやすくなるという物があると思うのですが、安易な表現媒体の変更というのは、相当に、原作がどのような意図でその表現媒体を選んだか?といったことを理解していないと難しいのではないかということです。

 物語を作品にするには、その物語を語る手法、つまり表現媒体の制約と利点・強みを演出技法として活きるようにするというものがあるのですが、どうもそれができていないものが散見される気がします。

 物語は作品ではないのです。物語はあくまで物語であって、他愛のないものも有ります。でもそれがいろんな表現媒体による独特な・固有の演出によって活き活きとし、作品としてできあがる。そして受け手に届いていくと僕は思っているのですがどうもその辺り、上手い原作改変といったものといいますか、成功事案を見たことがないです…。

 物語が作品になるということは、表現媒体によって物語のテーマも別物になるとおもうのですが、それは元となる原作作品の演出意図を組んで咀嚼してからではないと、膝を打つ作品にメタモルフォーゼすることはできないんじゃあないかなあというのが今日の雑記です。

おしまい。

あけましておめでとうございますというかブログの存在を忘れていたっていう

 はい、ということであけましておめでとうございます。になりました。ええ、ブログの存在を忘れてましたね。まあそういうこともあるというかパスワードとか忘れそうで困ってるんですが、まあいいやと。

 えー色々書くことはあるんですが、まず、COMITIA115。サークル参加します。とりあえず一冊短編小説が出ますが、二冊目がでるかどうか危ういという感じです。まあぼちぼち書ければなあと。

 といいますか、3月末までに、公募用に長編二本、中編一本を書かないといけないので困っている次第でございます。大変だなあ(他人事)。

 あとはなんですかね?えー、少し触発されまして、ドリームクラブというゲームのオフ会である「ドリクラナイトin名古屋」ってのをやろうかと目論んでおります。が、まだ目論見段階であり、人も集まるのか?そして会場はどうなるのか?そしてプレイするドリクラ自体をだれが持ってくるの?といった諸問題をかなり抱えつつの話なので、開催できるかはわかりませんが…まあなんとか開催に漕ぎ着けたい気もします。

 もうこのくらいかな?

 とりあえずの近況はこんなもんで。

 はい。

WUG劇場版2の感想「続けること、続かせていくこと、そのために今を精一杯生きる事」

 Wake up,girls!劇場版後篇Beyond the bottomを観ました。僕の人生の中で、初めてスクリーンが涙で滲んだ作品だったので、ちょっとした感想を書こうかと。

 Beyond the bottom(以下BtB)は劇場版WUG前編の「青春の影」を受けてのお話であるので、単独で評価するというのもおかしいのかもしれないのですが、僕は「BtB」は、単独の映画として評価しても差し支えないだろうと思います。ですので、なるべく「BtB」に絞った感想になります。

 当然のごとくネタバレがありますので読みたくない方はそのままそっとブラウザを閉じましょう。あと、WUGの劇場版1やテレビシリーズの大体の話とか知らないとわからないこともあるともうのでそういう方に懇切丁寧に説明するって言う書き方はできないので(めんどくさいというか、それはこの作品の残念ポイントの一つではあるのですが…まあWUG初見だと辛い作りではあるのは確かなのです)ある程度WUG知識がある事を前提にして書きます。













 さて「BtB」冒頭は、前編で東京に出たものの、うまく行かず、再出発という形で仙台に戻ってきたところから始まります。各メンバーが暑さのなかだらけているのが印象的です。気を許しているということとリラックスできているということなのでしょう。(男の松田マネージャーがいるのに)

 仙台からの再出発ということで、グリーンリーブズの面々は、次回開催の「アイドルの祭典」に参加するために知名度を上げていき、ブラッシュアップしていく事を考えたようです。「アイドルの祭典」というのは全国各地のご当地アイドルが各地区の予選を突破して、最終的に日本一のアイドルグループを決めるという催しで、I-1陣営が運営しているわけなのですが、今回はオブザーバーであったI-1 clubも一アイドルグループとして予選で勝ち上がってきたアイドルグループたちと順位を競うという形式になっています。

 WUGメンバーとしては、勝ち上がるためにどうにか研鑽を積み、認知度をあげるといった努力が必要であるわけで、そういった中でメンバーたちはドブ板営業を始めます。一からホントやり直しで、でも希望があるそんな描写でした。

 一方、前編に於いて、I-1でのセンター争いに敗れた志保は、センターを萌歌に奪われたものの、白木GMにチャンスを与えられます。それは「博多へ行って、新しいことをしろ」というものでした。

 ロッカールームで志保は、心配するI-1メンバーに大丈夫と答えるのですが、これが本当に「大丈夫」という意味であるのがすごく強いアイドルの言葉だと僕は思いました。

 さてそんなI-1元センター志保には三人のI-3研究生があてがわれます。そしてI-3の彼女らは、I-1初期の名曲「リトル・チャレンジャー」を歌い踊るのですが、それを観て、志保はアイドルであるということ、アイドルになった初期衝動と楽しさを思い出し、一緒になって踊ります。

 ここ、ホント好きなんですよね。今まで、I-1を背負ってきた志保にはI-1のメンツを守ると言った重圧と責任が自然とかかっていたはずで、故に、自分をじっくり見つめる時間がなかったと思うんです。でも、センターを解かれて、憑き物が落ちたような志保は、とても健やかに、のびのびと、したように思います。そういう環境に置かれたからこその「原点回帰」ができたということなのでしょう。なんにせよここで、I-1の志保が可愛くて仕方なくなるところだと思います。

 「トップアイドルだって、一人の人間である」そういったものが出てきたのだと思います。

 さて、そんな中、WUG一行は古い車を買い、夏休みを利用し、全国行脚の旅に出ます。全国でライブ活動をし、ファンに会いに行くアイドルという形をとって。

 そうした活動はアイドル界隈のファンたちにもネットで話題になり、注目度を増していきます。

 この辺り、僕はちょっと泣きそうでした。彼女たちがとても真摯であったから。小さなことからコツコツと、未来を信じて目の前のことをしっかりとやり続ければ何かが変わるはずという信仰心のようなものを感じて。それはすごく素敵だなと。

 WUGはその全国行脚中にニュースでI-1志保がセンター争いに敗れて博多に左遷されたと知るのですが、島田真夢は、志保なら大丈夫と言い切ります。でも心配だったのでしょう。志保に会いに博多のI-1シアターに行きます。

 そこでの会話。すごくいいんです。お互いに戦友感が出ていて。志保の体型変化(トレーニングで絞った)にすぐに気づく島田真夢なんてすごくお互いをみているってことですし。あの何を考えているかわからない島田真夢が、志保のことをライバルとしてみているっていう証拠ですから。

 話は大分飛んで、男鹿なまはげーずとの対バンをするWUGやWUGらしさとは何かを考えるメンバーの話もあるのですが、一番のポイントは「光塚を選ぶか?WUGを選ぶか?」の二択を迫られた久海菜々美の話でしょう。

 久海は、最初から、「WUGは光塚に入るための通過点」と言っていました。でもテレビシリーズ10話に於いて、それは一旦保留にして、当座はWUGに専念すると宣言しました。その通りにWUGに専念するわけなのですが、父親から「光塚はどうするんだ?」と言われ、自身の最初に描いた夢と努力と、WUGという新しい夢とそのための努力といったものをどう両立できるものか?どちらかを選ばなければ中途半端になってしまうどうすれば…と悩みます。

 そんな変化にいち早く気づいたのが林田藍里でした。そして、林田はWUGメンバーの前に久海を連れて行き、久海は「光塚受験のため、WUGをやめる」と言います。悩みに悩んで考えた末の結論を言う久海の心境は計り知れないでしょう。でもWUGメンバーは久海の背中を押すことを選びます。それがWUGの一員としてできることなのだろうと。

 結局のところ、久海は、アイドルの祭典会場にあらわれて「WUG一本でやっていく」と宣言するわけですが、その間の涙をさそうシーンが多く、畳み掛けてくるなあと。

 アイドルの祭典でのロッカールームでは、志保が待っていました。そしてI-1も楽屋に入ってキます。「ちょっとした同窓会だね」と話が弾むわけですが、皆笑顔なんです。これから戦う者同志だけれども笑顔なんです。

 これは、お互いを戦友と認め合った仲でしか出来ないものではないでしょうか?僕はこの描写にぐっときました。

 そして、色々あって主題歌がながれつつエンディングなのですが…。まあ素晴らしいなあと。何が素晴らしいんだと今問われても難しいのですが、僕は直ぐに後篇のキャッチコピーである「真摯であること・正直であること・一生懸命であること」というワードが脳裏に浮かびました。そう、真摯なのです。そして正直であり、一生懸命で在り続けることが、芸能というものに感動を与える演者達の心持ち・生き方なのだろうと思いました。そしてWUG BtBはそれが描けていると思います。

 芸能や娯楽というのは人を熱狂させ心を豊かにさせますが、一過性で儚いものでもあります。人の興味は移ろいやすいですから。でもそんな世界でも、芸能、娯楽といった儚いものを形あるものとして連綿と続く歴史として作り上げるといったことを皆していて、先人のそれが今の自分達に力を与えてくれるというメッセージは、とても尊い。

 白木GMなんかはそういうことを意識してI-1をプロデュースしているのではないでしょうか?そう考えるととても芸能を裏から支える(演者としてではなく記録者・企画者として)というのもひとえに「芸能」に対する情熱と、「先人から受け取ったバトン」を次の世代に渡す。そういった心意気を感じます。

 と、とりとめもないまま感想は終わりますが(だって咀嚼しきれてないし疲れるので…)とにかく、WUG BtBは、「バトンを繋いでいくことの大切さ」を示した作品であるなあと思ったのが僕の一番最初の感想です。これから何度か見ていく内にまたいろんな気持ちが湧いてくるのでしょうが、まあそれは楽しみにとっておくことにして、とりとめもない感想はこの程度にしておきます。

 特にオチのない感想ですみませんが… ね?


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パスピエが僕の中で幽世から現世に存在をのぞかせた日。

 本日、Zepp名古屋にて、パスピエのワンマンライブツアー「娑婆巡り」に参加してきたのだけども、多幸感がすごく余韻に浸っています。

 文章で伝えるのは難しいし、駄弁を以って語れる印象ではないので、なかなか筆が進まないのですが、それでも「すごいものをみた」という思いからブログを書いています。

 本日のライブでは既存の曲をライブアレンジにしたものが数曲有り、どれもジャズ・ファンク手的な色をしており、パスピエの音楽の多様性が更に広がったなあという印象でした。

 パスピエの曲を聴くとわかるのですが、ディスコティークなものから和風なもの、ポップなもの、そして、しっとりしたクラシカルな構造の曲といろいろな音楽のジャンルを横断しているのが特徴だと思います。そしてそれを支える演奏技術もさることながら、「表現力」というものが抜きん出ているなあという印象でした。

 「表現力」とはなにか?と言われるとそれは、彼らのステージングにあります。ただ演奏しているわけではない。ショーを魅せる、空間を作る。そう言ったものが伝わってくるのです。

 今回は二階指定席の最前列でじっくり俯瞰して見たのですが、ボーカルの大胡田なつきさんの演舞は言うまでもなく、演奏者皆の「演舞」といったものが見えてきたのでした。

 音楽以外にも表現というものはあり、ただ音楽を演奏するだけではないライブ。ミュージシャンというよりはパフォーマーといった方が適切なのかもしれません。音楽以外の方法で「なにか」を伝えることができている稀有なバンドだなあと思います。

 そして、ライブの途中、大胡田なつきさんが語っていたのですが、「自分たちは二次元的な存在だったのだけれども、新アルバム『娑婆ラバ』から三次元的なものになってきている」(大意)というのが実に興味深い話でした。

 確かに、パスピエは、デビュー以降顔出しというものはせず、それが妖しさにつながっており、それが少し非人間的な存在として存在していたと思います。そういうプロデュースの在り方だったのか、パスピエ自体がそれを望んでいたのかはわかりませんが。

 そのなかで、アッチ側の妖しい幽世の世界に居た彼らが、コッチ側の世界である現世に徐々に存在を移行しつつ在るというのが伝わってきました。

 その一端が歌詞の変化にあらわれていると大胡田なつきさんは言っていたけれども、歌詞だけでなく、演奏やステージングそのものが「コッチ側」の僕らの世界にコネクトし、受け手を巻き込んで音楽をつくり上げるということができるようになってきたというのが、パスピエの成長なのかなあと思いました。

 なんて、上から目線ご容赦ですが。とにかく面白い方向に転がっているバンドです。

 パスピエを知らない皆さん、ぜひお聴きくださいね。

いつからフラグとかカップリングとか気にして物語を見るようになったんだろう。

 最近、アニメの実況タグを見ながらアニメを見るのが趣味というか、他人がどうそのアニメを見ているのか?っていうのに興味があって、いろいろ見ているんですが、鉄血のオルフェンズを見て思ったことが、ブログタイトルのそれで…。

 自分の中では、フラグとかカップリングとか全然気にしないで受け取ってるんだけど、なんか大勢の人たちは、初見時から直ぐにフラグという物語の演出構造や、新キャラが出るたびにカップリング妄想とかする気がします。

 こういった楽しみ方は、否定もしませんし、面白いと思うんですが、問題は、いつから初見時からそういう物語の構造や、二次創作に即繋げる思考回路が形成されたのかというところです。

 僕は、フラグとかカップリング妄想とかそういうのは、あくまで副次的・二次的楽しみ方であって、まず一次的楽しみ方である「何も考えず作品に身を委ねて素直に見る(受け取る)」っていうのをまずするものじゃなのかなあと思っていたし、そういうもんだと思っていたんですが、少なくとも、ツイッターの実況民を見る限りはそうではなく、そういう一次的楽しみ方をすっ飛ばして副次的・二次的楽しみ方であるフラグ・カップリング妄想といったものに一足飛びに行ってしまうという印象を受けます。

 先述したように、こういう楽しみ方は否定しませんしむしろ楽しいし、所謂考察の楽しみだと思うのですが、どうも初見時からフラグとかが気になるってのはどうもフィーリング的に合わないなあと…。

 多分、世の中の人は、物語作品を受ける体験が豊富すぎて、物語の定型(テンプレート)をたくさん収集してしまったがために、嫌でもそういうテンプレートに当てはめて物語の展開を予想したくなるという回路ができていると思うのですが、これが本来の一次的楽しみ方を阻害してしまっている気がします。

 そして、作劇者もそういう受け手の思考回路を逆手に取って、フラグ・伏線といった予兆からおそらく大体はこういう展開にするだろうという期待に沿った話作りをしたり、逆にそれを裏切るという演出をしたりするのだろうけれども、それってなんか作劇の自由を奪っている気がしないでもないんですよね。

 そりゃ、結局物語はある程度のテンプレートが在るとは思うんですが、あまりフラグとか伏線とかをメインに物語作品の楽しみ方の優先度上位に置くと、自由な今までのテンプレートから外れた作品がでてこなくなるんじゃあないかとか危惧したりします。というか演出技法としてそういうものがないとそもそも作品として受けてもらえなかったりするのかもなあと…。

 フラグとか伏線とかわかりやすく定型化して楽しませるエンタメは確かに昔からあって、ハリウッド映画の作劇なんてまさにずっとそういう物があると思うのですが、そういったものだけが娯楽作品として受け入れられる状況になると、どうも新しいエンタメは出てこない気がして…。

 特にオチはないんですが、なんかどうもフラグとか伏線とかカップリング妄想とか、そういうのが受け手の全面(それも初見時に)に出過ぎてなんか素直にありのままの作品を受けるという一次的楽しみを結果的にスポイルしているのはもったいないんじゃあないかなあと言ったお話でした。

 おしまい。

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物語と作品はイコールではないだろう。

 今現在、僕は、小説という表現媒体を武器にして、物語作品を生み出してどうにか勝負をしたいと思っている。それ故に小説でしか出来ない表現とは何かと考えているのだけど、どうもなかなか見つからない。しかしながら一つたたき台にできると思ったのが、ノベライズ・コミカライズ・アニメライズ・ドラマライズ(正しい言葉なのかはわからないけれども伝わるだろう)といったマルチメディア展開といったものから考えることなのだろうと思う。

 時代性なのかわからないけれども、世の中でウケている物語作品というのはビジュアルイメージを全面に打ち出している印象がある。例えば小説でもライトノベルは表紙絵・挿絵の持つ力は強いと思う。表紙絵・挿絵でキャラクターの姿形が一発で画像情報として理解できるものというのは、とても強く印象に残るものだと思う。

 小説という文章だけの媒体であると、様々な容姿を表す語彙であったり表現があるのだけれども、例えば「青」ということばでイメージするのは皆一様に同じ色の「青」ではなく、人によっては信号機の「青」のように緑がかった「青」であるかもしれないし、突き抜けた秋空のような「青」かもしれないし、透き通った深海の「青」であるかもしれないのだ。

 そういった受け手の感受性とこれまで培ってきた人生経験の差異と言葉の結びつけ(シニフィアンとシニフィエ問題)といったものが自由であるのが小説という媒体の映像的表現の面白みであると思うし、僕はそういう受け手が自由に自分の好きな絵的イメージを想起できるものが好みであるのだけど、一般的にはどうもそうではなく、不特定多数の人と、キャラクターや情景の共有をしたいという欲求が強いように思えます。

 というのも、二次創作の世界に触れて思ったのですが、これは同じ作品を好きな人が共通項を見出して、その同じ共通項と作品情報の固定化という前提条件があってこそ成立するものであると思うのですが、それを強烈に並列化/同一イメージ化するのに最適なのはやはり「ビジュアル」なのですよね。

 なので、小説でもライトノベルやシャーロック・ホームズなどの銅版画付きの小説というのはキャラクターの風貌がまずビジュアルとして受け手の大多数に共通項として心に焼き付くので、そこから同じイメージ想起点を発端とした妄想のやり取りというのができるっていうのが二次創作の楽しみだと僕は理解しているのですが、それは果たして絶対なのかと問われれば、僕はそうではないと言いたくなってしまう。

 そりゃメイン・キービジュアルがあったほうが一発で同じイメージを多人数で共有できるので強力なファン同士の共通項・前提知識として役立つと思うのですが、そればっかりだと、どうもおもしろみが無いと僕は思ってしまう。

 ここで、思うのは、物語はそれぞれ作品化するにあたって、適した表現媒体を持っていて、それから外れると「コレジャナイ感」がでるのでは?っていうことなのですが、特に、今の時代の受け手の好みというのは、「ビジュアル優先」「キャラクター優先」「キャラ萌えのための関係性(百合・BLとか)」だと思うのですが、それは安易にキャラクターというものを記号化してテンプレートとして消費しているように見えてならないのですが、僕はどうもそういうのが苦手らしい。

 それはそれで楽しみ方の一つでは在ると思うのですが、それだけじゃないでしょう物語が作品となる場合の可能性というのは!というのが僕の考えるところで、なおかつ僕の表現手法・演出手法に於いて弱いところでも有ります。

 小説のアニメ化・映像作品化においては、おそらくキャラ立ち・キャラ萌え・関係性萌えといったものにフォーカスを当てると、映像表現として映像映えと物語にコミットしやすくなるという物があると思うのですが、安易な表現媒体の変更というのは、相当に、原作がどのような意図でその表現媒体を選んだか?といったことを理解していないと難しいのではないかということです。

 物語を作品にするには、その物語を語る手法、つまり表現媒体の制約と利点・強みを演出技法として活きるようにするというものがあるのですが、どうもそれができていないものが散見される気がします。

 物語は作品ではないのです。物語はあくまで物語であって、他愛のないものも有ります。でもそれがいろんな表現媒体による独特な・固有の演出によって活き活きとし、作品としてできあがる。そして受け手に届いていくと僕は思っているのですがどうもその辺り、上手い原作改変といったものといいますか、成功事案を見たことがないです…。

 物語が作品になるということは、表現媒体によって物語のテーマも別物になるとおもうのですが、それは元となる原作作品の演出意図を組んで咀嚼してからではないと、膝を打つ作品にメタモルフォーゼすることはできないんじゃあないかなあというのが今日の雑記です。

おしまい。

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